forest-mountain’s blog

歴史についてつれづれなるままに書いてます

空に魚が飛んでいる?

先日の下鴨神社の続きを書こうと思ったんですが、今日はある場所で写真を撮ったら空に変なものが写っていたんでこの事を書こうと思います。

 

先日、6月21日、夏至の日に伊勢神宮に参拝しました。

この日は緊急事態宣言が解除になった翌日だったのと夏至の日が重なりこれまでに比べて参拝者が多く、また天気も快晴だったことも手伝ったようです。

 

伊勢神宮の参拝順路は外宮から内宮へ回るのがしきたり?らしく、タクシーに運転手さんの話では、このしきたりは外宮に鎮座する豊受大御神は内宮の天照大御神より500年後にこの地に鎮座して、天照大御神に食事を捧げる神なので外宮を先に回ることになっているらしいです??

 

外宮では、豊受大御神が祀られている本殿に参ると、一陣の風が本殿を隠している幌(みとばり)をふぁーと靡かせました、なんとも神聖な気持ちと神様に歓迎されている気がしました。

 

境内を参拝の途中、「三ツ石」という儀式の時にお祓いをするというところに来ると、右手にビリビリと電気が走る感覚を覚え、強いエネルギーがここから発せられていることを感じ、なぜか「三本の矢」🏹という言葉が聞こえてきました。

また「矢は放つためにある、だから放つ必要がある」というメッセージも聞こえ、古代の服装をした男性がこちらに向かって、口から強い炎を吹き出してくるのが浮かびました。不思議?

 

そして、外宮を終え内宮へ移動し、この世とあの世の結界と言われる五十鈴川にかかる宇治橋を渡り、五十鈴川で手を清め天照大御神が鎮座している本殿に参拝し、

ここでも不思議な光景を目にしました。

宇治橋から見た五十鈴川、何とも澄み切った川面

 

 

僕は、神話の天照大御神邪馬台国の女王の卑弥呼とはなぜか同一人物だと思えるんです。

そのことを本殿に登る階段のところで思っていると、巫女の格好をした髪が長く髪を後ろに束ねている若い女の人が小走りに降りてきて、僕の方をみてまた走り去る姿が浮かんできました。

これはその答えだなと、やっぱり天照大御神卑弥呼だったんだ勝手に思いました。

 

内宮を存分に参拝したあと、五十鈴川にかかる別れを惜しみながら宇治橋をまた渡り、最後に振り返って橋の上から撮った写真がこれです。

う???鳥居の真上の空に魚?らしきものが飛んでいるんです。

スマホで連続して撮ったんですが、この一枚だけになにか写ってます。

 

どう見ても魚か鯨かメダカらしき姿かたち⁉️

拡大したら目もあり尻尾の方は尻尾以外に何か伸びているような、そして胴体から何か発光しているような色も見えるような、

 

最初はレンズにゴミが付着して映り込んだんだろうと妻と話してたんですが「いや、これはゴミではない!」と確信が湧いてきました。

写っている位置が、丁度宇治橋の真ん中を垂直に伸ばした上空であり、鳥居の真ん中というのもその気持ちを後押しするようで、これはまさに未確認飛行物体ではないだろうか??と思うんです。

 

みなさん、これ、何に見えますか?

いやー不思議な夏至の日の1日でした。

それにしても参拝後、おはらい町通りの食べ物屋さんとか午後4時すぎというのにどこも店を閉じ出して、入るお店はほとんどなくなっていたのには二度びっくりでした。

(終わり)

下鴨神社にて祭神について思ったこと

先日、京都御所の鬼門に当たる下鴨神社に参拝してきました。

京都御所を守るために建てられたのでしょうか。

正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼ぶそうで、鴨川の下流に位置してるんで通称「下鴨神社」というそうです。

この神社の祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと)と玉依姫命(たまよりひめ)という二人の神様です。

神様を二人という呼び方をしていいのかどうか?

 

賀茂建角身命は別名八咫烏(やたがらす)とも言われ、神武天皇の神武東征の際には金鵄(きんし)に化身して奈良まで道案内をして初代天皇の地位につけ日本を統治させたとあります。

でも、僕はカラスでもなんでもなく地理に長けた人間は先導役として道案内したと思います。

一方、玉依姫神武天皇のお母さんであり玉とは「霊魂」、依りとは「憑りつくす」、姫とは「巫女」で「神霊の依代となる巫女」とのことです。

当時日本には巫女が沢山いたんではないでしょうか?

 

この二人の神は別名が色々あるし別の神という言い方もされています。

つまり、この祭神と言われる神は全て人間だったのではないでしょうか?

特殊な能力を持った人間を神という存在に仕立てて崇拝していたと思うんです。

 

下鴨神社のHPによると西暦28年には神宝の奉納、西暦90年には神社の端垣の修復がされた事が記録として残っているそうです。

そうすると時代は縄文時代から弥生時代ということになります。

その時代は歴史的な記録にも石器や土器が使われ、稲作が行われ始めた頃とあります。

神社が建てられたり修復されたりしている記録が残るということは、人間の手が加わっている証拠だと思うんです。

 

そういうことを思いながら境内を回って行きました。

この続きはまたしたいと思います。

 

(終わり)

  

白河上皇、鳥羽上皇陵墓を訪ねて

京都に来て、滞在している所から歩いて行ける所に、平安時代院政を作った白河法皇、その孫の鳥羽上皇墓所があったんで行ってみました。

(上が白河上皇陵墓、下が鳥羽上皇陵墓)

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二人の陵墓は割りと近くにあり、この辺り一帯が平安時代に院御所として院政を行う舞台となりました。

今では陵墓のすぐそばを道路が走り、民家が密集していて往時の面影はありません。


院政が始まったのは白河天皇天皇を退いて、幼い堀川天皇に地位を譲って隠居したのち上皇になった後から始まったもので、院政とは、このように幼い天皇に代わって政治を行なっていく事です。

白河上皇40年余り天皇に代わって朝廷の実権を握り続けました。

そして、白河上皇はかなり側室も抱える女人好きだったみたいで、その事が後々天皇家の中での争い、ひいては源平を巻き込んだ争乱に発展していきます。

 

孫の鳥羽天皇は成長し正室を迎え、長男がうまれます。後の崇徳天皇です、この人は非常に不運な人で鳥羽天皇はこの人を白河上皇の子供ではないかと疑い疎ましくなり、天皇から退かせ若くして上皇にさせられます。

代わって天皇になったのが、弟で後の後白河法皇です。平家を滅亡へ導いた張本人。

 

崇徳天皇の話に戻って、父の鳥羽天皇から愛されずにその怨みは沸々と鬱積していきます。

そして、天皇への返り咲きを狙って周りの公家や武士を巻き込み、弟の後白河さん達と戦いますが、無念にも負けてしまい四国に流罪となってしまうんです。

歴史でいう、保元の乱です。この時、源氏と平氏もそれぞれが仲間割れし、どちらかにつきます。

そして、崇徳天皇は四国讃岐に流刑になって8年後、暗殺とも憤死とも言われていますが寂しく亡くなります。何て白河上皇は罪つくりなんでしょう😩

もしかしたら、実子ではないということは鳥羽上皇の思い違いだったかもしれませんが、白河上皇の女たらしが生んだ悲劇。

 

この保元の乱平氏の棟梁である平清盛と源氏の棟梁である源頼朝の父義朝も後白河天皇側につき勝利に貢献しますが、戦後の論功行賞の差が明らかに平清盛側に分がありこれに不満を持った源義朝が平家へ戦いを挑みます。これが平治の乱へと発展します。

 

だから、白河上皇後白河法皇院政とい自分たちの長きにわたる権力の保持が日本の歴史の方向性を決定づけることになったのです。

本当に権力というのは、人を不幸にするものですね。

そんなことを思いながら、平安の頃、院政が行われたこの地をあとにしました。

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(終わり)

 

 

京都に滞在して

久しぶりの更新になってしまいました。

昨日から故あって、京都に1ヶ月ほど滞在します。

 

京都は、神社仏閣が多く日本の文化の発祥の地として大変貴重な土地だと思います。

そして、平家にとってはゆかりの地であり、繁栄の地でもあり滅亡への地でもある因縁の土地です。なので、平家に縁のある場所を尋ねていければと思います。

 

今朝は早起きをして滞在先の近くの鴨川ベリを一時間程散歩してきました。

水面が思ったより澄んでいて、鴨川だけに鴨がスイスイと川面に浮かんで泳いでいました

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平安の頃、戦禍に見舞われたとは思えないような雰囲気があります。

また、鴨長明の「方丈記」の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」が思い浮かばれてきて

 

8世紀ごろ桓武天皇平城京長岡京より都を移して災害、疫病、飢饉のない世の中を作ろうと平安京を建設しました。

しかし、源平の争い、朝廷内の権力争い、天災などから京の都は苦難に見舞われ、平安の祈りも通じにくかったのかと思います。

 

それにしても、歴史的な観光地が閑散として人がいないのが残念だなという思いと今だからこそ歴史的な価値が少しでも保たれていいのかなという両方の思いがあります。

 

この京都にいる間になぜ平家がこの地で栄えてきたのか、そのゆかりの地を尋ねてみたいと思います。

(おわり)

後白河法皇という人は平家の敵

後白河法皇という人は平家を滅亡に追いやった人です。

もともと、天皇の四男に生まれたために天皇になる予定ではなかったのに、偶然の産物により天皇の地位が転がり込んできました。

そして天皇を退いた後は幼い天皇に変わって政治権力を握る院政を30年以上もの長い間行って、実質的な天皇になって権力を奮いました。

 

平清盛が生きていた頃は清盛とは腹の探り合いをしてそれでもなんとか平家と友好関係を保っていたのですが、清盛が病で亡くなると途端に源氏に平家の追討命令を出して、それに従って義経や頼朝配下の武将たちは壇ノ浦で平家を滅亡させました。

 

この人は、源氏にとっても大変いわくつきの人で、源氏と平家をうまく操作しながら、片方の勢力が拡大した時は片方に勢力を削がせたり、持ち上げたと思ったら、いきなりハシゴを外したりと中々の曲者だったようです。

 

それだけ世渡り上手というか、いい意味で言えば人間を知りつくしている人間力のある人だと

いうことになるのかもしれません。

しかし、平家にとっては憎い相手、この人がいなかったら平家も壇ノ浦での滅亡はなかったかもしれないなと思うと歴史も変わってたんじゃないだろうかと思う次第です。

頼朝の父や兄弟を死に追いやって源氏の衰退させ、その後、源氏に平家を滅亡させ、そして源氏を再生(頼朝の鎌倉幕府創設)させるなど途方も無いことをやった人でした。

 (おわり)

平家への想い

 俗に平家と呼ばれる人たちは、純粋な平氏だけではない人たちも多数含まれます。

平清盛の一族の他、平氏に従った家臣や源氏、藤原氏の一部や水軍、地方の豪族などです。

だから平家の落人と言われる人達は、壇ノ浦で単に平家側として戦った兵士や船頭や水軍等が多数を占めるようです。

 

清盛の父、忠盛の時代から中国との貿易ルートとして、西日本の海上を制圧して来ました。

そして各沿岸に根城を張り中国との貿易船や渡航船を襲い積荷を強奪していた海賊を討伐し、それら四国や九州の海賊を水軍として味方につけていき、海上交通を確保し貿易による富と海の戦いに強い平家となっていきました。

 

その中で、九州の肥前(今の佐賀県長崎県北部)の松浦水軍は清盛の時代まで平家方として

従っていましたが、壇ノ浦の戦いでは平家を裏切り源氏に寝返って平家滅亡の一因となったのでした。

 

僕の実家は、昔、松浦水軍の拠点があった近くです。

水軍にいわれのあるものを多く残っています。

僕がなぜか平家に昔から惹かれていた理由は、もしかしたら過去世は松浦水軍の一員だったんじゃないかと思えるのです。

壇ノ浦で水軍として戦い、自分は裏切る気はなかったのに組織に従って平家を裏切ったことが心残りで、今世で平家に思い入れが強いんじゃないかと思うことがあるのです。

 (おわり)

 

 

 

 

 

平清盛のこと

毎回、書いていることが時系列になってなく、話があっちこっちに飛んでしまってすみません。

 

平家の黄金時代を築いた平清盛は、平家物語の中でも非常に悪く書かれています。

驕り高ぶり、寺院の焼き討ちや、突然、都を京都から福原(今の神戸)に移したりしたことがとても非情な独裁者として描かれています。

 

ただ、僕はそうは思わないのです。

 

平家を滅亡に追いやった源頼朝は、殺される運命であった若い時に清盛の温情によって助かっています。

また、後白河法皇が落ち込んでいる時には、三十三間堂をプレゼントしたり 。

ただ、この二人が平家を滅亡させた張本人ですが、その点、清盛には先見の目がなかったかもしれません。

 

また、清盛は、父忠盛の時代から続く日宋貿易を盛んに行い、貿易港として博多や今の神戸を作っていきました。

天然の良港である所に着目し、港を浚渫し防波堤や岸壁を作り海外貿易の拠点とした。

清盛の大きな功績の一つは海外貿易により日本の経済を発展させたことだと思います。

博多は近年国際クルーズ船の寄港日本一ですし、神戸は国際港として日本の輸出入の拠点です。

清盛がいなかったら今の博多や神戸の繁栄はなかったと思います。

 

今の日本が外需に頼っている、それをいち早く予見した人物で単純に驕り高ぶりふんずりかえるだけでは日本を引っ張ってきた人物にはなり得なかったろうと思うのです。

だから、僕は清盛に憧憬さえ覚えます。

 (おわり)