引き続き、壇ノ浦のこと
今日もおとといに続き、壇ノ浦のことを書いていきます。
平清盛は1185年、原因不明の熱病で病にかかり、平家の行く末を心配しながら息を引き取ります。
そして、わずか4年後の1185年に壇ノ浦の戦いは起きます。
清盛の独裁政権に不満を持った、公家や後白河法皇、源氏などがタッグを組んで平家打倒へ動いていったのでした。
それは、壇ノ浦の潮流のように激しく、すごい勢いで平家の全てを飲み込むように
清盛が生存していた時は、不満分子がいてもそのカリスマ性によって統率できていたのですが、息子たちの代になるとそのオーラは消えてしまって、今まで平家方であった人たちの人心も離れていきます。
戦争も下手で、京都の六波羅に拠点を持っていた平家は源氏の木曽義仲に責められ自分たちの屋敷などに火を放ち平家の遺構も燃やし尽くしてあっけなく都から逃げ出します。
まさに”やけっぱち”といった所でしょうか。
そして、神戸一ノ谷の合戦で敗れ、四国の屋島でも敗けて、逃げる途中で平家が造営した厳島神社に祈願しても敗け、流れ流れて下関壇ノ浦まで来ました。
そして、義経率いる源氏軍に滅ぼされてしまいます。
軍勢の数は平家の方が多かったとも言われますが、清盛の代から従っていた水軍などからの裏切りにあったり、奇をてらった義経の戦い方に古来の戦法から抜けきれない戦い方をしたことが壇ノ浦の敗因の一つになっています。
たった、4時間あまりの戦いで”平家にあらずんば人にあらず”と言われた一族は滅んでしまいます。
清盛死後の平家の棟梁は、三男の平宗盛という人でしたが、全く公家化してしまっていて、政治や戦いには不向きだったようです。
そんな人は他に向いた仕事をさせるべきだったと思います。
これは清盛の判断ミスだったんではないでしょうか?
なので、弟の平知盛(とももり)という人が中心的な采配を握っていました。
僕は平家の武将の中でもこの人がお気に入りです。
平家物語でも男らしく描かれていて、弟ながら平家を懸命に引っ張っていく姿、壇ノ浦では最後まで戦い、平家全滅を見届けた後、錨を担いで「見るべきものは全て見つ・・」といって、覚悟を決め、海に飛び込んでいます。
宗盛も海に飛び込んでも、助かろうと泳いでしまい、そして引き上げられ、最後は源氏に処刑sれてしまう最後。
浄瑠璃「義経千本桜」の演目の演目の中で「碇 知盛」として出てきます。
壇ノ浦の段はこれでおしまい
平家終焉の地 ”壇ノ浦”
こんにちは、今日は源平の最後の決戦場、壇ノ浦について書いていきます。
昨日も書きましたが、壇ノ浦というのは、潮流が激しく潮の流れが1日の中で変化していく船の航行には非常に困難な海域であるというところです。
「浦というのは陸地が湾曲して湖や海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す」
とWikipediaには書かれています。
壇ノ浦というところは陸地が段々になってせり出した地形であり、また、潮の流れも階段のような落差があるほど急激なものだったということからついた名称ではないかと勝手に思ってます。
この潮流の変化が、勝敗を決定的にしたと書かれている歴史書もありますし、調査の結果、主戦場はそんなに流れが速くないからそれが主因ではないといった説もあり、様々な捉え方があります。
ここでは、潮流が勝敗の分かれ目であったという説に則っていくと、西から東へ向かって潮が流れる正午ごろから戦いは始まり、午後3時ごろには潮目が変わり逆に東から西へ流れ始めて午後4時ごろに平家は壊滅し、戦いは終了したということです。
たった4時間ほどのことで、あの「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ日本の武家の頂点であった平家は全滅してしまいました。
まさに、諸行無常の世界です。
平家に対しては、東から源氏が攻めてきて一方、九州で陣を張っていた源義経の異母兄範頼が、西から攻めてくるといった構図であり、平家は仕方なく下関の西の島、彦島という所に陣を張り、そこを拠点に最後の戦いに挑みました。
最初は、西からの追い潮にのって平家は源氏を攻め立てますが、途中、潮の流れが東から西へ変わって行くと一気に戦いは不利になり、敗戦へと進んでいきます。
それをよってか、はたまた、最初から裏切るつもりだったのか、平家方についていた水軍等が次々と源氏に寝返っていきます。
運動会や年末の紅白歌合戦などでは紅組” ”白組”とありますが、壇ノ浦では平家は赤旗、源氏は白旗をたて、それを敵味方の目印にして戦いました。
紅組、白組というのはこの時に由来するそうです。
また、明日また壇ノ浦の続きを書きます。今日はここまで
(おわり)
壇ノ浦の戰いがあった場所に職場が
僕は一時期、壇ノ浦が見える北九州の門司に勤務していたことがありました。
約900年前に壇ノ浦で源氏と平家の決戦が行われ平家が滅んだ地として有名なところです。
対岸には平家一門を供養した赤間神宮を眺めることが出来、平家好きの僕にとっては願っても無い環境で働ける幸せな場所でした。
門司は明治・大正の洋館が集結した門司港レトロ地区や夏には下関と門司の両方から打ち上げる関門海峡花火大会などもあり年間200万人が訪れる観光地です。
壇ノ浦の目の前は関門海峡で、ここは日本とアジアを結ぶ重要な航路なので外国や国内の大型コンテナ船やタンカー、時には潜水艦や帆船の日本丸など毎日沢山の珍しい船が航行していてワクワクしながら職場から眺めていたものでした。
ここは本州と九州をつなぐ関門橋のところが一番狭くなっていて、幅が500m程しかない上に折れ曲がって見通しが悪く、潮の流れも激しく、航行する船の事故なども頻繁に起こります。
何万トンもあるような大型船が行き交うこの海峡で、平安時代に小さな船に乗って源平の武士達が死闘を繰り広げていたかと思うととても信じらい光景でした。
潮の流れが1日の中で4回ほど変わると言われる関門海峡で、平家は最初潮の流れに乗って
優勢に戦っていたのが、途中から逆に流れ出し源氏との形勢が逆転して壊滅的に戦いになって滅んだと言われています。
門司には平家とゆかりのあるところが多く、壇ノ浦の戦いの時に勝利を祈願した和布刈神社や清盛の4男で壇ノ浦の戦いで入水した平知盛(とももり)の墓と言われるものを祀った甲宗八幡宮などもあり、いろんな所を自転車で巡っていました。
そんなところで平家に想いを馳せながら勤務した2年間でした。
(おわり)
公卿と平氏の台頭
何度も書きましたが平氏とは、もともと天皇の子孫でありましたが、のちに武士となり、御所の警護をしたり、地方を治める役目を負うようになっていきました。
天皇や貴族達は、戦うことができないため、自分たちを武力によって守ってくれる平氏ら武士達をいいように使っていました。
当時、武士は公卿達(御所で天皇や上皇の側近として政治を動かしていた貴族)から人間扱いされていなかったのです。
そして、公卿の筆頭が藤原氏一族でした。
藤原氏は天皇に自分の娘らを代々皇后として嫁がせ、その子供が天皇になるので実質的に朝廷を動かしている一族でした。
平氏も桓武天皇などの子孫であると言うことは、元をたどれば公卿達も平氏も同じ一族であったのです。
それが、平氏の地位が上がってくれば、藤原一族の邪魔になる存在として憎しみを持つようになります。
まだ、清盛のお父さんである忠盛の時は初めて平氏で御所へ上がる地位への昇進までですが、清盛は公卿になりその最高ポストである太政大臣(その上は天皇のみ)まで出世して、藤原氏の上位となったわけです。
そりゃ、藤原氏らは面白く無いはずです、密かに平家追討の計画を練っていくのです。
(おわり)
平清盛の父、忠盛という人
平清盛の父、忠盛は平安時代の末期に平氏の全盛の礎を築いた人と言われている。
(院政とは上皇が政治の実権を握ることで、早く天皇から退き、幼い天皇にその地位を譲るため実質の政治を上皇が行った)
当時、延暦寺や興福寺といった寺院には僧兵という武装した集団がいました。
彼らは寺院で雑役に就いている人たちであり、山の上の寺から強訴(ごうそ)といって仏教を傘に着て、朝廷などに武力で自分たちの要求を通すことを行なっていました。
これには、朝廷なども散々苦しめられ、破壊や強奪等の被害を受けていました。
忠盛はこの僧兵をやっつけたり、日宋貿易の船を襲う海賊たちを討伐したりして、朝廷の心強い家臣であったため、益々上皇の信頼が厚くなっていきます。
そして、白河上皇から奥さんをプレゼントされます
自分の側室であった白拍子(歌や舞をする芸人)を妻とするようにと(おそらく要らなくなったからでしょう)
この奥さんは、忠盛と結婚する前に妊娠していたと言われ、清盛は白河上皇の子供だったのではないかと言われています。
(おわり)
武士である平家が公卿と同列になる
「将門の乱」から200年後くらい後になりますが
関東で根を張った板東平氏はやがて伊勢に拠点を構えるようになり、伊勢平氏と呼ばれるようになります。
そして清盛のおじいちゃんである正盛の時に、白河上皇に信頼され上皇の御所を護衛する北面武士になります。
北面武士とは退位した天皇の住居である院御所の警護を行う武士のことであり、主に源氏と平氏でやっていました。
そして、清盛のお父さんである忠盛の時に、北面武士として警護する立場から一気に出世して伊勢平氏として初めて昇殿という天皇の身辺に仕える立場を与えられ、公卿と同じような身分になるのです。
忠盛は、西海の海賊等を討伐し、今の中国である宋と盛んに貿易を行い財力を蓄えていきました。上皇には貿易品をプレゼントしたりしてちゃっかりと取り入って朝廷の中でも平家の力が他の公卿を凌ぐほど大きくなっていったのです。
ただ、成り上がり者の武士である忠盛は公卿たちから嫌がらせや妬みなど様々な妨害を受けていたようです。
元々上皇を警護する武士というのは、公家からは人間とはみなされない野良犬のような扱いを受けていたようなので、その武士が自分たちと同列になり朝廷の中で意見を言える立場にいることはどうしても許せないことだったと思います。
後々この遺恨が平家滅亡の壇ノ浦へと繋がっていくのです。
そして、このお父さん忠盛の努力により、清盛は後々さらに朝廷の中で出世し平家全盛の時を迎えるのです。
(おわり)