壇ノ浦の戰いがあった場所に職場が
僕は一時期、壇ノ浦が見える北九州の門司に勤務していたことがありました。
約900年前に壇ノ浦で源氏と平家の決戦が行われ平家が滅んだ地として有名なところです。
対岸には平家一門を供養した赤間神宮を眺めることが出来、平家好きの僕にとっては願っても無い環境で働ける幸せな場所でした。
門司は明治・大正の洋館が集結した門司港レトロ地区や夏には下関と門司の両方から打ち上げる関門海峡花火大会などもあり年間200万人が訪れる観光地です。
壇ノ浦の目の前は関門海峡で、ここは日本とアジアを結ぶ重要な航路なので外国や国内の大型コンテナ船やタンカー、時には潜水艦や帆船の日本丸など毎日沢山の珍しい船が航行していてワクワクしながら職場から眺めていたものでした。
ここは本州と九州をつなぐ関門橋のところが一番狭くなっていて、幅が500m程しかない上に折れ曲がって見通しが悪く、潮の流れも激しく、航行する船の事故なども頻繁に起こります。
何万トンもあるような大型船が行き交うこの海峡で、平安時代に小さな船に乗って源平の武士達が死闘を繰り広げていたかと思うととても信じらい光景でした。
潮の流れが1日の中で4回ほど変わると言われる関門海峡で、平家は最初潮の流れに乗って
優勢に戦っていたのが、途中から逆に流れ出し源氏との形勢が逆転して壊滅的に戦いになって滅んだと言われています。
門司には平家とゆかりのあるところが多く、壇ノ浦の戦いの時に勝利を祈願した和布刈神社や清盛の4男で壇ノ浦の戦いで入水した平知盛(とももり)の墓と言われるものを祀った甲宗八幡宮などもあり、いろんな所を自転車で巡っていました。
そんなところで平家に想いを馳せながら勤務した2年間でした。
(おわり)
公卿と平氏の台頭
何度も書きましたが平氏とは、もともと天皇の子孫でありましたが、のちに武士となり、御所の警護をしたり、地方を治める役目を負うようになっていきました。
天皇や貴族達は、戦うことができないため、自分たちを武力によって守ってくれる平氏ら武士達をいいように使っていました。
当時、武士は公卿達(御所で天皇や上皇の側近として政治を動かしていた貴族)から人間扱いされていなかったのです。
そして、公卿の筆頭が藤原氏一族でした。
藤原氏は天皇に自分の娘らを代々皇后として嫁がせ、その子供が天皇になるので実質的に朝廷を動かしている一族でした。
平氏も桓武天皇などの子孫であると言うことは、元をたどれば公卿達も平氏も同じ一族であったのです。
それが、平氏の地位が上がってくれば、藤原一族の邪魔になる存在として憎しみを持つようになります。
まだ、清盛のお父さんである忠盛の時は初めて平氏で御所へ上がる地位への昇進までですが、清盛は公卿になりその最高ポストである太政大臣(その上は天皇のみ)まで出世して、藤原氏の上位となったわけです。
そりゃ、藤原氏らは面白く無いはずです、密かに平家追討の計画を練っていくのです。
(おわり)
平清盛の父、忠盛という人
平清盛の父、忠盛は平安時代の末期に平氏の全盛の礎を築いた人と言われている。
(院政とは上皇が政治の実権を握ることで、早く天皇から退き、幼い天皇にその地位を譲るため実質の政治を上皇が行った)
当時、延暦寺や興福寺といった寺院には僧兵という武装した集団がいました。
彼らは寺院で雑役に就いている人たちであり、山の上の寺から強訴(ごうそ)といって仏教を傘に着て、朝廷などに武力で自分たちの要求を通すことを行なっていました。
これには、朝廷なども散々苦しめられ、破壊や強奪等の被害を受けていました。
忠盛はこの僧兵をやっつけたり、日宋貿易の船を襲う海賊たちを討伐したりして、朝廷の心強い家臣であったため、益々上皇の信頼が厚くなっていきます。
そして、白河上皇から奥さんをプレゼントされます
自分の側室であった白拍子(歌や舞をする芸人)を妻とするようにと(おそらく要らなくなったからでしょう)
この奥さんは、忠盛と結婚する前に妊娠していたと言われ、清盛は白河上皇の子供だったのではないかと言われています。
(おわり)
武士である平家が公卿と同列になる
「将門の乱」から200年後くらい後になりますが
関東で根を張った板東平氏はやがて伊勢に拠点を構えるようになり、伊勢平氏と呼ばれるようになります。
そして清盛のおじいちゃんである正盛の時に、白河上皇に信頼され上皇の御所を護衛する北面武士になります。
北面武士とは退位した天皇の住居である院御所の警護を行う武士のことであり、主に源氏と平氏でやっていました。
そして、清盛のお父さんである忠盛の時に、北面武士として警護する立場から一気に出世して伊勢平氏として初めて昇殿という天皇の身辺に仕える立場を与えられ、公卿と同じような身分になるのです。
忠盛は、西海の海賊等を討伐し、今の中国である宋と盛んに貿易を行い財力を蓄えていきました。上皇には貿易品をプレゼントしたりしてちゃっかりと取り入って朝廷の中でも平家の力が他の公卿を凌ぐほど大きくなっていったのです。
ただ、成り上がり者の武士である忠盛は公卿たちから嫌がらせや妬みなど様々な妨害を受けていたようです。
元々上皇を警護する武士というのは、公家からは人間とはみなされない野良犬のような扱いを受けていたようなので、その武士が自分たちと同列になり朝廷の中で意見を言える立場にいることはどうしても許せないことだったと思います。
後々この遺恨が平家滅亡の壇ノ浦へと繋がっていくのです。
そして、このお父さん忠盛の努力により、清盛は後々さらに朝廷の中で出世し平家全盛の時を迎えるのです。
(おわり)
将門の乱
「平氏とは、皇族から臣籍降下した平高望が始まりです」と前回書きました。
京の朝廷から関東を治めるために派遣された高望親子はそこで地元の有力者と結びつき根を張り、京へは帰京せず板東平氏となっていきます。
そして、高望の長男国香(くにか)の子供である平貞盛(高望の孫)の時に平将門が、関東の独立を図って朝廷に対して反乱を起こします、「将門の乱」といわれるものです。
将門は高望にとっては甥であり、貞盛とは従兄弟同士でした。
将門は叔父である国香を滅ぼし一時は新皇として関東で政権を打ち立てますが、貞盛らとの戦いによって破れて討死します。
将門の首は京へ運ばれ晒し首になりますが、その首が恨みのあまり自分の胴体を探して関東まで飛んでいって、落ちたところが東京の大手町にある「将門の首塚」といわれているところです。
この首塚を動かそうとしたりするとたたりがあるといわれたりして、とってもオカルトチックな話は有名ですよね。
この、将門が滅ぼした平国香の直系の子孫が平清盛になるわけです。
(つづく)
平氏が生まれた起源は・・・
平氏とは、もともと第50代天皇桓武天皇の子供達が「臣籍降下(しんせきこうか)」して、平(たいら)の姓をもらって、その子孫が関東や西日本に散らばって、板東平氏や伊勢平氏に
なったと書きましたが、そのことについて、平氏の起源を遡りたいと思います。
昔は天皇にも正室である皇后の他に、側室である妃や夫人といわれる女性が沢山いて、桓武天皇にも側室が沢山いました。
その中の側室の子である葛原親王の孫かひ孫か定かではないんですが、王子である高望王(たかもちおう)と言う人が、臣籍降下(しんせきこうか)して平の姓をもらって平高望と名乗るようになりました。この人が平氏の最初の祖先です。西暦900年ごろのことです。
(※「臣籍降下」とは皇族が皇室から離れ別の姓をもらって天皇の臣下になる)
その平高望は、朝廷から関東を治める地方行政官の官僚として派遣されました。
その内、京都には戻らずにその子供たちも地方行政官として関東に根付くようになり、そこで一族を増やしていき軍事力を持った武士団を形成していきました。坂東平氏の始まりです。
(つづく)