forest-mountain’s blog

歴史についてつれづれなるままに書いてます

平家の栄華と六波羅蜜寺

久しぶりに書きます。

先月京都に滞在し、その時平家の拠点があった六波羅蜜寺に立ち寄ったのでそのことを少し書きます。

六波羅蜜寺は、平安時代末期、醍醐天皇の王子である空也上人がここで当時京都で流行っていた疫病の退散の祈祷を行ったのがこの寺の始まりだそうです。

鴨川の東にあり、平安の昔は死者の埋葬地への入り口に当たるところだったそうで、平清盛の祖父正盛がここで一族の供養堂を作り、父忠盛が六波羅館という一族の軍事拠点を作りました。

当時は今の境内よりも相当広かったみたいで、その境内に平清盛は平家一門の拠点を構え、一族郎党約3千戸をここに住まわせました。

当時最大の権力者であった後白河法皇の住まいもこの近くにあったことから、緊急事態の際にもすぐ駆けつけられるということで平家はここを拠点にしました。

六波羅蜜寺の前の通り)

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今通ってみると、当時平家一門が集結していたとは想像できないほど、民家が立ち並び狭い道路が曲うねっています。

源平の武者たちが駆けていたこの地で、平安の昔に思いを馳せながら歩きました。

六波羅蜜寺には、本堂の奥に空也上人像や清盛坐像などが安置されており、それらの像は今にも動きそうでリアルでした。

 

寺の外には清盛塚があり、本当の墓ではありませんが清盛公のことを思いながら手を合わせました。清盛の墓は不明だそうです。

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今でもこの六波羅周辺には、小松町とか池殿町とかいう地名がありますが、これらは清盛の息子の重盛や弟の頼盛などが住んでいたところです。

そして、平家が滅んだ後、鎌倉幕府の北条氏は清盛の邸跡であるここに朝廷や武家を監視する六波羅探題を置きました。

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平家の栄華があったこの六波羅も清盛の後継者である宗盛は源氏に追われ屋敷群に火をつけて京都を捨てて落ちていきます。

清盛が亡くなってからわずか3、4年後のことです。

”奢れるものも久しからず”

そんなことを思いながら六波羅を後にしました。

(終わり)