白河上皇、鳥羽上皇陵墓を訪ねて
京都に来て、滞在している所から歩いて行ける所に、平安時代に院政を作った白河法皇、その孫の鳥羽上皇の墓所があったんで行ってみました。
二人の陵墓は割りと近くにあり、この辺り一帯が平安時代に院御所として院政を行う舞台となりました。
今では陵墓のすぐそばを道路が走り、民家が密集していて往時の面影はありません。
院政が始まったのは白河天皇が天皇を退いて、幼い堀川天皇に地位を譲って隠居したのち上皇になった後から始まったもので、院政とは、このように幼い天皇に代わって政治を行なっていく事です。
白河上皇は40年余り天皇に代わって朝廷の実権を握り続けました。
そして、白河上皇はかなり側室も抱える女人好きだったみたいで、その事が後々天皇家の中での争い、ひいては源平を巻き込んだ争乱に発展していきます。
孫の鳥羽天皇は成長し正室を迎え、長男がうまれます。後の崇徳天皇です、この人は非常に不運な人で鳥羽天皇はこの人を白河上皇の子供ではないかと疑い疎ましくなり、天皇から退かせ若くして上皇にさせられます。
代わって天皇になったのが、弟で後の後白河法皇です。平家を滅亡へ導いた張本人。
崇徳天皇の話に戻って、父の鳥羽天皇から愛されずにその怨みは沸々と鬱積していきます。
そして、天皇への返り咲きを狙って周りの公家や武士を巻き込み、弟の後白河さん達と戦いますが、無念にも負けてしまい四国に流罪となってしまうんです。
歴史でいう、保元の乱です。この時、源氏と平氏もそれぞれが仲間割れし、どちらかにつきます。
そして、崇徳天皇は四国讃岐に流刑になって8年後、暗殺とも憤死とも言われていますが寂しく亡くなります。何て白河上皇は罪つくりなんでしょう😩
もしかしたら、実子ではないということは鳥羽上皇の思い違いだったかもしれませんが、白河上皇の女たらしが生んだ悲劇。
この保元の乱で平氏の棟梁である平清盛と源氏の棟梁である源頼朝の父義朝も後白河天皇側につき勝利に貢献しますが、戦後の論功行賞の差が明らかに平清盛側に分がありこれに不満を持った源義朝が平家へ戦いを挑みます。これが平治の乱へと発展します。
だから、白河上皇も後白河法皇も院政とい自分たちの長きにわたる権力の保持が日本の歴史の方向性を決定づけることになったのです。
本当に権力というのは、人を不幸にするものですね。
そんなことを思いながら、平安の頃、院政が行われたこの地をあとにしました。
(終わり)
京都に滞在して
久しぶりの更新になってしまいました。
昨日から故あって、京都に1ヶ月ほど滞在します。
京都は、神社仏閣が多く日本の文化の発祥の地として大変貴重な土地だと思います。
そして、平家にとってはゆかりの地であり、繁栄の地でもあり滅亡への地でもある因縁の土地です。なので、平家に縁のある場所を尋ねていければと思います。
今朝は早起きをして滞在先の近くの鴨川ベリを一時間程散歩してきました。
水面が思ったより澄んでいて、鴨川だけに鴨がスイスイと川面に浮かんで泳いでいました
平安の頃、戦禍に見舞われたとは思えないような雰囲気があります。
また、鴨長明の「方丈記」の冒頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」が思い浮かばれてきて
8世紀ごろ桓武天皇が平城京、長岡京より都を移して災害、疫病、飢饉のない世の中を作ろうと平安京を建設しました。
しかし、源平の争い、朝廷内の権力争い、天災などから京の都は苦難に見舞われ、平安の祈りも通じにくかったのかと思います。
それにしても、歴史的な観光地が閑散として人がいないのが残念だなという思いと今だからこそ歴史的な価値が少しでも保たれていいのかなという両方の思いがあります。
この京都にいる間になぜ平家がこの地で栄えてきたのか、そのゆかりの地を尋ねてみたいと思います。
(おわり)
後白河法皇という人は平家の敵
後白河法皇という人は平家を滅亡に追いやった人です。
もともと、天皇の四男に生まれたために天皇になる予定ではなかったのに、偶然の産物により天皇の地位が転がり込んできました。
そして天皇を退いた後は幼い天皇に変わって政治権力を握る院政を30年以上もの長い間行って、実質的な天皇になって権力を奮いました。
平清盛が生きていた頃は清盛とは腹の探り合いをしてそれでもなんとか平家と友好関係を保っていたのですが、清盛が病で亡くなると途端に源氏に平家の追討命令を出して、それに従って義経や頼朝配下の武将たちは壇ノ浦で平家を滅亡させました。
この人は、源氏にとっても大変いわくつきの人で、源氏と平家をうまく操作しながら、片方の勢力が拡大した時は片方に勢力を削がせたり、持ち上げたと思ったら、いきなりハシゴを外したりと中々の曲者だったようです。
それだけ世渡り上手というか、いい意味で言えば人間を知りつくしている人間力のある人だと
いうことになるのかもしれません。
しかし、平家にとっては憎い相手、この人がいなかったら平家も壇ノ浦での滅亡はなかったかもしれないなと思うと歴史も変わってたんじゃないだろうかと思う次第です。
頼朝の父や兄弟を死に追いやって源氏の衰退させ、その後、源氏に平家を滅亡させ、そして源氏を再生(頼朝の鎌倉幕府創設)させるなど途方も無いことをやった人でした。
(おわり)
平家への想い
俗に平家と呼ばれる人たちは、純粋な平氏だけではない人たちも多数含まれます。
平清盛の一族の他、平氏に従った家臣や源氏、藤原氏の一部や水軍、地方の豪族などです。
だから平家の落人と言われる人達は、壇ノ浦で単に平家側として戦った兵士や船頭や水軍等が多数を占めるようです。
清盛の父、忠盛の時代から中国との貿易ルートとして、西日本の海上を制圧して来ました。
そして各沿岸に根城を張り中国との貿易船や渡航船を襲い積荷を強奪していた海賊を討伐し、それら四国や九州の海賊を水軍として味方につけていき、海上交通を確保し貿易による富と海の戦いに強い平家となっていきました。
その中で、九州の肥前(今の佐賀県、長崎県北部)の松浦水軍は清盛の時代まで平家方として
従っていましたが、壇ノ浦の戦いでは平家を裏切り源氏に寝返って平家滅亡の一因となったのでした。
僕の実家は、昔、松浦水軍の拠点があった近くです。
水軍にいわれのあるものを多く残っています。
僕がなぜか平家に昔から惹かれていた理由は、もしかしたら過去世は松浦水軍の一員だったんじゃないかと思えるのです。
壇ノ浦で水軍として戦い、自分は裏切る気はなかったのに組織に従って平家を裏切ったことが心残りで、今世で平家に思い入れが強いんじゃないかと思うことがあるのです。
(おわり)
平清盛のこと
毎回、書いていることが時系列になってなく、話があっちこっちに飛んでしまってすみません。
平家の黄金時代を築いた平清盛は、平家物語の中でも非常に悪く書かれています。
驕り高ぶり、寺院の焼き討ちや、突然、都を京都から福原(今の神戸)に移したりしたことがとても非情な独裁者として描かれています。
ただ、僕はそうは思わないのです。
平家を滅亡に追いやった源頼朝は、殺される運命であった若い時に清盛の温情によって助かっています。
また、後白河法皇が落ち込んでいる時には、三十三間堂をプレゼントしたり 。
ただ、この二人が平家を滅亡させた張本人ですが、その点、清盛には先見の目がなかったかもしれません。
また、清盛は、父忠盛の時代から続く日宋貿易を盛んに行い、貿易港として博多や今の神戸を作っていきました。
天然の良港である所に着目し、港を浚渫し防波堤や岸壁を作り海外貿易の拠点とした。
清盛の大きな功績の一つは海外貿易により日本の経済を発展させたことだと思います。
博多は近年国際クルーズ船の寄港日本一ですし、神戸は国際港として日本の輸出入の拠点です。
清盛がいなかったら今の博多や神戸の繁栄はなかったと思います。
今の日本が外需に頼っている、それをいち早く予見した人物で単純に驕り高ぶりふんずりかえるだけでは日本を引っ張ってきた人物にはなり得なかったろうと思うのです。
だから、僕は清盛に憧憬さえ覚えます。
(おわり)
引き続き、壇ノ浦のこと
今日もおとといに続き、壇ノ浦のことを書いていきます。
平清盛は1185年、原因不明の熱病で病にかかり、平家の行く末を心配しながら息を引き取ります。
そして、わずか4年後の1185年に壇ノ浦の戦いは起きます。
清盛の独裁政権に不満を持った、公家や後白河法皇、源氏などがタッグを組んで平家打倒へ動いていったのでした。
それは、壇ノ浦の潮流のように激しく、すごい勢いで平家の全てを飲み込むように
清盛が生存していた時は、不満分子がいてもそのカリスマ性によって統率できていたのですが、息子たちの代になるとそのオーラは消えてしまって、今まで平家方であった人たちの人心も離れていきます。
戦争も下手で、京都の六波羅に拠点を持っていた平家は源氏の木曽義仲に責められ自分たちの屋敷などに火を放ち平家の遺構も燃やし尽くしてあっけなく都から逃げ出します。
まさに”やけっぱち”といった所でしょうか。
そして、神戸一ノ谷の合戦で敗れ、四国の屋島でも敗けて、逃げる途中で平家が造営した厳島神社に祈願しても敗け、流れ流れて下関壇ノ浦まで来ました。
そして、義経率いる源氏軍に滅ぼされてしまいます。
軍勢の数は平家の方が多かったとも言われますが、清盛の代から従っていた水軍などからの裏切りにあったり、奇をてらった義経の戦い方に古来の戦法から抜けきれない戦い方をしたことが壇ノ浦の敗因の一つになっています。
たった、4時間あまりの戦いで”平家にあらずんば人にあらず”と言われた一族は滅んでしまいます。
清盛死後の平家の棟梁は、三男の平宗盛という人でしたが、全く公家化してしまっていて、政治や戦いには不向きだったようです。
そんな人は他に向いた仕事をさせるべきだったと思います。
これは清盛の判断ミスだったんではないでしょうか?
なので、弟の平知盛(とももり)という人が中心的な采配を握っていました。
僕は平家の武将の中でもこの人がお気に入りです。
平家物語でも男らしく描かれていて、弟ながら平家を懸命に引っ張っていく姿、壇ノ浦では最後まで戦い、平家全滅を見届けた後、錨を担いで「見るべきものは全て見つ・・」といって、覚悟を決め、海に飛び込んでいます。
宗盛も海に飛び込んでも、助かろうと泳いでしまい、そして引き上げられ、最後は源氏に処刑sれてしまう最後。
浄瑠璃「義経千本桜」の演目の演目の中で「碇 知盛」として出てきます。
壇ノ浦の段はこれでおしまい
平家終焉の地 ”壇ノ浦”
こんにちは、今日は源平の最後の決戦場、壇ノ浦について書いていきます。
昨日も書きましたが、壇ノ浦というのは、潮流が激しく潮の流れが1日の中で変化していく船の航行には非常に困難な海域であるというところです。
「浦というのは陸地が湾曲して湖や海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す」
とWikipediaには書かれています。
壇ノ浦というところは陸地が段々になってせり出した地形であり、また、潮の流れも階段のような落差があるほど急激なものだったということからついた名称ではないかと勝手に思ってます。
この潮流の変化が、勝敗を決定的にしたと書かれている歴史書もありますし、調査の結果、主戦場はそんなに流れが速くないからそれが主因ではないといった説もあり、様々な捉え方があります。
ここでは、潮流が勝敗の分かれ目であったという説に則っていくと、西から東へ向かって潮が流れる正午ごろから戦いは始まり、午後3時ごろには潮目が変わり逆に東から西へ流れ始めて午後4時ごろに平家は壊滅し、戦いは終了したということです。
たった4時間ほどのことで、あの「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ日本の武家の頂点であった平家は全滅してしまいました。
まさに、諸行無常の世界です。
平家に対しては、東から源氏が攻めてきて一方、九州で陣を張っていた源義経の異母兄範頼が、西から攻めてくるといった構図であり、平家は仕方なく下関の西の島、彦島という所に陣を張り、そこを拠点に最後の戦いに挑みました。
最初は、西からの追い潮にのって平家は源氏を攻め立てますが、途中、潮の流れが東から西へ変わって行くと一気に戦いは不利になり、敗戦へと進んでいきます。
それをよってか、はたまた、最初から裏切るつもりだったのか、平家方についていた水軍等が次々と源氏に寝返っていきます。
運動会や年末の紅白歌合戦などでは紅組” ”白組”とありますが、壇ノ浦では平家は赤旗、源氏は白旗をたて、それを敵味方の目印にして戦いました。
紅組、白組というのはこの時に由来するそうです。
また、明日また壇ノ浦の続きを書きます。今日はここまで
(おわり)